披雲閣
江戸時代にもこの場所に「披雲閣」と呼ばれる御殿がありました。現在の披雲閣は大正時代に高松松平家12代御当主松平賴壽伯爵により別邸として建てられたものです。賓客をもてなす迎賓館的な役割があり、昭和天皇皇后両陛下や英国の皇太子が利用しました。今では、茶会やコンサート等、市民の文化活動に幅広く使用されています。
玄関
むくりのある入母屋造の屋根をくぐり、当時の照明器具が取り付けられた格天井の下、黒漆塗りの舞良戸を開けると正面に「披雲閣」の扁額が見える。これは江戸時代の旧「披雲閣」に掲げられていたもので、高松松平家五代藩主松平賴恭時代、三井(深川)親和の筆によるものと言われ、妖雲を披くという熟字が語源とされている。(15畳)
蘇鉄の間
むくり屋根の下に18畳の間と21畳の間が東西に並び、1間幅の入側が四方を廻る。さらにガラス戸の外には濡れ縁が巡らされている。賓客との応接に使われていた部屋で椅子とテーブルを使用した披雲閣唯一の洋間。天井には二葉葵の葉がデザインされた当時のオリジナル照明器具が取り付けられている。令和4年春に耐震補強工事が完了。(約100畳)
杉の間
1間幅の中廊下をはさんで部屋が2列に並ぶ構成で北列は西から6畳・6畳・6畳の3室、南列は西から8畳・8畳・6畳の3室、計6室です。北列の3室には全て床・棚を備え、南列は西端の8畳の間の西に床・棚を備えている。南の内庭には『君が代』に歌われている「さざれ石」が庭石として置かれ、当時は松平家の事務室として使われていた。
調理場
披雲閣の「台所」。東側には井戸を構え、土間には「かまど」が残る。柱や天井、窓枠などが白いペンキで覆われている。これは戦後1945年から1954年までの9年間、進駐軍に接収され住居として使用された名残である。流しがあるが排水はお堀に直結しているので注意が必要だ。写真は調理場土間のモザイクタイル。
桐の間
東から10畳・8畳・8畳の3室。東端10畳には床があり、中央8畳と西端8畳の間は押入れで仕切られている。北側は大書院と結ぶ1間幅の渡り廊下。南側は半間幅の廊下、格子のガラス戸からの陽射しが明るい。合仕切の板欄間に光琳桐の透かし模様が入っている。
藤の間
桟瓦葺き寄棟造の屋根を架けた建物で小屋組みは和小屋。東の庭には藤棚が設けられ、内部は北から10畳・6畳・8畳の部屋が3室並び、いずれも棹縁天井。東面はガラス窓、西側は1間幅の渡り廊下。6畳と8畳の部屋にはそれぞれ流しが設けられている。
松の間
10畳の間2室が東西に並び、北・南側に廊下がある。西側の部屋は西に床・違棚を備え、炉が切られている。北側廊下東端には六角断面の栗材を使用した濡れ縁と棗型手水鉢を備える。高松松平家12代ご当主、賴寿伯爵の居間、寝室として使用されていた。豆盆栽をこよなく愛した賴寿伯爵、北側の庭にも部屋のすぐそばに松が植えられている。(20畳)
槇の間
2階建ての書院棟。むくりのある桟瓦葺き入母屋造の屋根を架け、北・南側に銅板葺きの下屋を付けおろし、2階には「波の間」がある。12.5畳の間2室が東西に並び西側に床・違棚を備える。北側と南側には1間の入側を設け、各室に1ヶ所炉が切られている。濡れ縁と手水鉢を配した南側の内庭の景色も見所。大書院に次ぐ2番目に大きな和室。(47畳)
大書院【DAISYOIN】
桟瓦葺入母屋造りの屋根で小屋組みはキングポストを用いた洋小屋。内部は28畳の間が東西に3室並び、三方(北・東・南)に1間幅の入側を回し、その四方に廊下を巡らせ、建具を取り外せば142畳の大広間になる。披雲閣内で床・違棚・付書院の3つの座敷飾りを備えた部屋は「大書院」だけで、対面所に相応しく格式の高さをうかがわせる。
波の間
披雲閣唯一の2階の部屋で10畳の間2室が東西に並び、北側と南側に1間幅の廊下、東側に3畳の控室、西側に6畳の茶室を配置している。「波の間」は貴賓の客室として使用。上品で落着きを感じさせる室内意匠で、欄間には鳳凰が刻まれている。大正時代には英国皇太子が訪れ、昭和28年には昭和天皇皇后両陛下がお泊りになられた記録が残っている。